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メタ認知の為のシステムとしての音楽

こんにちは國井です。 
毎月開催している ‘テーマの無い会員向けイベントBMIACafe’ には、珍しいお客さんが立ち寄ります。先日は、前衛音楽家が来店してとてもディープな話になりました。 

音楽とは何か? 

という答えようのない問いについて話す時間は、なんとも贅沢です。どんな話が実際されたかは、会員向けのFBグループ内(BMIAサロン)で動画配信されていますので、そこで見ることができます。 

本当におもしろい対話の時間でした。原始的な音楽から宗教音楽、民俗音楽、西洋音楽、商業性を重視した音楽、前衛音楽など多くの分類において捉えられている音楽に違いはあるのか。多くの対話の中で生まれた音楽というものの一つの解釈は、こんなものでした。

原始的な音楽いわゆる、石を木で叩く、穴の開いた石に空気を入れて音を出すといったものと現代のPOPSの間に本質的な違いは存在しないと考えられる。 
音楽の成り立ちに宗教音楽としての発展が論じられることが多いが、これは至極当然なのではないか。なぜなら音楽の本質とは、「神おろし」と考えられるからだ。※この対話の中での「神おろし」は、自分との対話、内省のようなものを意味しています(一つの考えとして神社が非日常空間の演出であり、お祈りするときお願いではなく今ある自分に感謝を伝え内省を促すシステムと考えることができるように)。 

音とリズムの組合わせで体の中の血が沸く経験は誰でもしたことがあると思います。私の娘は、ピアノをやっているのですが、「練習よりも演奏会の方がうまく弾ける」と言います。練習より本番の方がうまく弾けるということは実際にはありません。けれどもこの感覚は、誰にでもあるし、聞く側も演奏会で聞く方が上手に聞こえるのです。私もサックスを演奏していたことがありこの感覚を何度も味わいました(後日録音した音を聞いてひどく落ち込む事も同じ回数経験するわけですが)。 

音楽そのものが人を非日常へと誘う力を持ちます。また、寺山修司いわく本来音楽(読書やアートもそうであった)は一人で行うものであったそうです。音楽やアート、本の作者と1対1で向きあう事、それが内省を促すシステムとなっています。 

 

つまり音楽とは、人が本能的に獲得したメタ認知(神の眼を借りて自分を見る)の為のシステムであるとあると考えられるのではないか。 

先日テレビで所ジョージさんのメタ認知能力が高いという話題が話されていました。所さんは、冬に輪投げのおもちゃ(かなり難しい)を買って遊んでるときに、夏になって半袖半ズボンでまだ輪投げし続けている自分を想像して楽しむことができるのだそうです。所さんのように自分で自分をプロデュースしてバランスよく生きる生き方をする上で、このメタ認知能力が重要なのかもしれません。しかしながらメタ認知能力が高い人は少ないとのこと、よってヒトは音楽やアートのようなシステムを開発してきたのかもしれません。自分を客観的に見たいという方は音楽やアートと向き合ってみるのはいかがでしょうか。

ビジネスモデル・キャンバスも、様々な会社のビジネスモデルをメタ認知するためのツールです。ビジネスモデル・キャンバスを使いこなし、ビジネスにおいて重要なメタ認知能力を獲得したい方は、基礎講座、応用講座へご参加ください。 

追伸 
私には、対話の中で解き明かしたかった(反面解き明かせないと思っている)2つの問いがありました。

  • 一見普通の人には理解できない前衛音楽に商業性を持たせることは可能か?
  • そこにあるクリエイティビティーとは何か?

音楽の本質を考えた時、たくさんCDを売る(もしくはダウンロードされる)、ライブで数万人の観客動員を行うという事が、単なる現象の一つに過ぎないとわかります。またフリーインプロビゼーションのような、どう聞いていいかわからない演奏が可能性の無限の提示(無限の可能性の提示ではなく)であることが理解できたことは大きなヒントとなりました。今後、現在商業モデルではない音楽とビジネスモデルについても追及していきたいと思います。

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